またもシングルで迎えてしまった51歳のバースデー。
本当に落ち着く事が出来ない。
誕生日前日には近所の仲間が「がぜん」で前祝のミニパーティーを開いてくれて、サプライズでケーキまで出てきてとても感激した。
まだまだ明るい6時から始めたパーティーは、8時半で終了。
私は家に帰って9時過ぎに就寝、翌日は5時に起きて、ダックのバイト。
3時前に帰って来てからは、メールやフェイスブックのバースデーメッセージに返事。
250以上もあったので、途中「こころ亭」に弁当買いに行って、食べた後もやはり夜9時まで返事書き。
誕生日はこれで終わってしまった。
翌日はやはりダックのバイトの後、返事書きの続きをして、夜は友達の家に呼ばれて、またパーティー。
明けた今日はココクレーター植物園ツアーに行って、帰って来てから返事書きをフィニッシュさせた。
皆さんのメッセージ、大変嬉しかった。
でも、もうバースデーメッセージを一人ずつ返すのは今年で限界だと思った・・・。
さて、20歳までにブラジルを含み6回、20代だけで東京とLAで7回も引っ越しをして、住む場所すら落ち着かなかったころに比べると、ハワイに来てからは22年目の現在まで、島の中ではやはり7回引っ越しはしたが、動きは少ないし、今のアパートは10年以上になる。
だが、パートナーは3回変わっても駄目で、人生に設計図などあって無い様な物。
これからは一人で生きていく事を、また考えなければならない。
昔っから、努力して成功したのは高校の時のバスケットボールくらいで、あとは、努力に意味が無かったり、方向が間違っていたりの繰り返し。
20代はとにかく体験。
目の前に機会があれば、受けてきた。
日本の大学に行こうと思っていたのに、突然LAに渡り、レストランの店長を2回経験した。
最初の店は、第一次寿司ブームのLA。
太平洋が目の前に広がるマリブの日本食レストランには、連日ハリウッドスターが訪れ、マドンナやジーン・ハックマン、バーバラ・ストライザンド、布施明と当時のオリビア・ハッセー夫妻、そしてオリビア・ニュートン・ジョンが常連で、自ら予約の電話を入れてきちゃったりする、もう日本にいた時の自分からすると、異次元の世界だった。
そこで21歳になったばかりの日本人の若造が店長をやったと言うのは、アメリカンドリームの一つに感じた。
3か月も休みが無かったり、今考えればかなりブラックだったかもしれないが、アメリカ人従業員のいい加減さも身に染みて感じた頃。
そんな店で、売り上げ記録も作ってから、バーンアウト。
仕事ばっかりに嫌気がさして、しばらく遊んでた。
でも次も日本食レストラン。
ただしかなり格下で、町のジャパニーズ・レストラン。
ここでは、ウェイターだけするつもりだったのだが、結局店長も兼ねさせられてしまった。
まあ、新聞でクーポン配ってる庶民の店だったし、スタッフも日本人が多かったから、ここでは結構LA生活をエンジョイ出来た。
でもここで、オーナーから「店任せる」みたいな話が出て考えた。
このままじゃずっとレストランの店長で終わっちゃうのでは?と。
やっぱり手に職が必要かな?と思いだした頃、バブルの日本に戻り、今度はコンピューター業界に入って、SEとして3つの会社を渡り歩いた。
2つ目の会社では、アメリカへの1〜3カ月の出張が続き、LA〜オレンジ・カウンティーほぼ全域、SFおよびオークランド、そしてアラスカのアンカレッジに長期滞在し、仕事ばっかりで残業200時間なんて言う、ホテルにほとんど帰れない様な厳しい時もあったけど、日本側とかの対応待ちでやる事がなくて、出張仲間と昼間からホテルで酒飲んでギャンブルしてたりなんて言う事もあり、ビジネスクラスやファーストクラスで飛行機に乗っていた頃だった。
日本のサラリーマンと言うのも経験出来たし、吉祥寺での一人暮らしも楽しかった。
そしてバブルの終息と共に、本格的なアメリカ復帰を考えるのだが、やはり日本は窮屈。
これはリテラリー、日本の家屋は私のサイズには合わない。
188センチで、足は30センチ。
服や靴も、私のサイズはアメリカなら全く問題ないが、日本だと専門店か、オーダーメイド。
電車に乗ってもつり革が顔に当たって危ない。
アメリカの生活を知らなければ、そのまま日本にいたかも知れないが、人間の大きさの幅の広いアメリカで、私は少し普通の生活をする事が出来た。
しかし戻ったLAでコンピュータの仕事が見つからなかった。
2000年問題がシリアスになる何年も前で、業界は不況の状態だった。
そしてレストラン時代の友人に誘われ、ツアー業界に入った。
大手のやり方を勉強して、経験も積ませてもらったが、暴動や洪水など頻発していたLAは、観光地としての魅力が無くなり、生活が苦しくなった。
そしてLAを出る決心をして、今度はハワイに流れてきた。
ただし、ツアーではなく、最初は撮影コーディネーターの仕事をするためだった。
今ほど一年中仕事がある訳ではなく、冬に日本の夏の絵を撮りに来る撮影がほとんどだった。
必然的に夏になると仕事が減り、ワイキキの土産物屋でバイトをしている時に、日本人旅行者の多さに改めて気付き、マリンスポーツの送迎のバイトを始めた。
ここでも最終的にはマネージャーをやる事になったが、30代に入り、自分でツアー会社を立ち上げる事にした。
そしてすぐに最初の結婚。
しかしどちらも簡単にはいかなかった。
乗馬のバイトをしたり、撮影やイベントのコーディネータのバイトもした。
ハウス・ケアテイカーも何度かやったし、庭師もやった。
そんな中であっさりと最初の結婚が終了。
でも、30代はツアーで行こうと決めていたので、インターネットの時代になって、コンピュータ−時代のスキルが役に立ち、自社ホームページを立ち上げてから、流れも少し変わってきた。
SNSも無い時代で、日記を書いているだけでは、まだ伝わりにくい事もあり、Yahooの掲示板などに、「ハワイの事聞いてください」的なスレッドを立ち上げていた事もあった。
この頃2度目の結婚を考える等になる。
だが2001年にはNYでの同時テロで、観光客は激減。
新しく始めたKTファンツアーで、マニアックなツアーの企画をするようになり、新たな顧客層を確保出来たが、試行錯誤の状態の中での再婚だった。
その他にもSARSや豚インフルエンザ、リーマンショックなんて言うのもあった。
逆風の苦しいまま、バツ2になる。
東日本大震災では、ハワイでも余波で多くの中小企業が倒産をしたが、懲りずにまた結婚。
それでも「LOST」ファンツアー、神社仏閣ツアーなんて言う、かなりマニアックなツアーを企画するようになると、また別の顧客が付き始めた。
今はディープな自然系と、マニア系の2本立てでツアーを催行して、ラジオやテレビに助けられたりもしたが、結局3度目の結婚も失敗。
人生は川の流れの様に、時には激しく、時には穏やかに進んでいるが、川自体が全然変わってしまったり、時々無理やり川辺の陸に上げられたり、支流から泥水が流れてきたり、思いもしなかった事が起き続けているのが私の人生。
これからどうなるのだろう?
今年で20年目のダイアモンドヘッドクラブでさえ、浮き沈みが激しく、またもバイトに頼って生活費を稼がなくてはならない状況。
一つの事ばかりでは面白くないので、バイトも楽しんでいるが、もう少し余裕を持った状況にしたいなとは常日頃思う。
将来の事を考えると、仕事もまだまだ発展させていく必要があるし、また弟子でも作って、色々教えてあげたいと言う気持ちもある。
ちなみに今は弟子も妹分もいないので、本当に一人。
こう言う時は不思議と、年上の友人たちに声をかけてもらったりして、食事に呼び出されたりする事が多くなる。
皆さん言う事はまちまちだが、大抵最後は「気楽に行け」となる事が多い。
ハワイに来てから随分と気楽に生きてきたつもりでいた私よりも、先輩たちはもっと気楽に生きているようで、羨ましい。
でも勿論それぞれ色んな苦労はされていて、それを乗り越えてきている。
苦労自体を気楽に楽しんでいる感じもある。
ハワイに来てからスキューバダイビングやスカイダイビングを始めたが、今は全くやっていない。
ブギーボードも最後にやったのはいつだろう?
さすがに体力勝負の激しいスポーツは敬遠するようになってきたが、山歩きと水泳だけではなく、また何か楽しみながら出来る事を始めたいとも思っている。
これからの仕事の形、どんな人に出会うのか、これからもまだ、人生の川は流れてゆく。