1992年にLAで起きた暴動は、ロドニー・キングと言う黒人に白人警官が暴行をしている場面がビデオで撮影されていた事から問題が大きくなり、裁判になった挙句白人警官達に無罪判決が言い渡された夜、4月29日にダウンタウンのLA警察から始まった。
この時LAに住んでいた私は、色々あって転職を決意し、1ヶ月に渡るツアーガイドの研修を受け、この日は大手ツアー会社のメインツアー(空港から市内観光をしてホテルにチェックイン)のガイドとしてデビューする前日だった。
ゴールデンウィークを目前にしたこの夜は、会社のミーティングとパーティーがあったのだが、「白人警官無罪」の判決は既にニュースになっていた。
パーティーが開かれたのはリトル・トーキョーのウェラコート。
ニュー・オータニ・ホテルがあり、オニズカ宇宙飛行士のスペースシャトルの模型が展示してあった、観光客も多い場所だ。
中華料理で食事をした後、カラオケ・スナックに流れたのだが、酒も入ってすっかり盛り上がってきた頃、辺りがどうも焦げ臭くなってきた。
店の人が外に出ると薄っすらと煙が入ってきた。
真っ黒で、普段開ける事のない防音窓を開くと、まず車のアラームの音が大量に鳴り響いているのが聞こえた。
そしてあちこちで火が見えた。
燃えているのは車や、パーキングのアテンダントの小屋など。
そして走り回る人々。
怒りに狂った黒人たちが、止めてある全ての車の窓を割り、中の物を物色して持ち去っていく。
店のガラスを割って堂々と盗みをしている。
道路の真ん中で大きな火を燃やし、車や店に火をつける。
ポリスカーの音や、ヘリコプターの音が混ざり、まさに地獄の光景だった。
何しろウェラコートはLA警察のすぐ近くで、まさにグラウンドゼロだったのだ。
これからどうなるのか?どうしたら良いのか?
恐怖心を覚え出した。
やがて店のあるウェラコートの管理人がやってきて、全ての入り口とパーキングのゲートは閉めてあるので、今はここから出ないで欲しいと言う内容だった。
盗る物も無くなったのか、やがて暴動はダウンタウンからサウスセントラル地区に移動していく。
不謹慎に思いながらも、我々は仕方ないからカラオケ歌っていたのだが、再びやってきた管理人が、「今から15分だけパーキングのゲートを開ける」と言う知らせを持ってきた。
女性は一人では帰らないと言うことで、家が近い人は乗り合いをしていたが、私は一人でカルバーシティーの自宅まで帰るしかなかった。
パーキングを出た途端に、まるで遊園地の乗り物のような非日常の空間が始まった。
市街戦があった戦場のような町には、決して多くはないが車は走っていた。
誰もが逃げるように、信号も関係なく走り、カオスの町。
サンタモニカ・フリーウェイに乗ると、あちこちから流れてくる煙で視界が悪いのに、ポリスカーだけではなく、制限速度など関係なくなっていた。
オーバーランドでフリーウェイを降りると、まだ周りは静かだった。
翌朝のガイドデビューはなんとウェラコートに隣接するニュー・オータニ・ホテルにお客さんをピックアップに行く仕事から始まった。
暴動はまだ続いているが、ダウンタウンの消火は勿論終わり、道路上に投げ出されたものは大方片付いていた。
ホテルの入り口には大きなガラスが填められていたが、かなり上の方が大きく割れていて、シートを被せているところだった。
お客さんは年配のご夫婦。
これから日本に帰られるお二人は、昨晩さぞや恐い思いをされた事だろうと察すると、ガイドとしては「是非またLAに来て下さいね〜」なんて軽く言えない状態。
まあホテルの中に暴徒が押し寄せたわけではないので、勿論無事なのだが、「昨晩は随分ヘリコプターの音が聞こえましたが、何かのお祭りですか?」と聞かれ、最初は冗談だと思った私だが、どうやら暴動が発生していた事に気付いていなかったようなので、そのまま詳しいことは話さずに日本に帰国していただいた。
しかしその後はLAに来る予定だった観光客のキャンセルが当然相次ぎ、いきなり仕事が暇になったが、帰国のお客さんを空港へ送っていく仕事は続いた。
当時は大型のバンを運転していたが、会社の近くが韓国人街で、店を守ろうとする店主が外に向けて拳銃を撃つすぐ横を走ったこともあり、車に当たるのではないかと本気で恐かったし、信号待ちで止まるとすぐ横の商店がまさに今略奪にあっていたり、カオスの状態は続いていた。
今はハワイですぐ近所に住む友人の大ちゃんとは当時同じアパートに住んでいて、家に帰ると屋上に上がって暴動の火災が段々近づいてくるのを恐々としながら眺めていたものだ。
幸い近所まで暴動は押し寄せなかったが、戒厳令がしかれた町では、近所のスーパーでも入り口に大きな銃を持った州兵が立ち、物々しい雰囲気だった。
ハリウッド・ブルバードのチャイニーズ・シアター前に軍の装甲車が止まり、まさに戦場のようになった。
3日間続いた暴動が治まると、物好きな観光客が来るようになった。
元々LAのダウンタウン地区のホテルにチェックインするお客さんには、普段から「夜はホテルから絶対に出ないでくださいね」と念を押していたが、この時は昼間から気をつけるように注意をしていた。
しかし儲けを考える会社が考えたのは「暴動焼け跡ツアー」。
日本でも連日テレビで報じられた火災現場や、暴徒に襲われた商店街などを巡るツアー。
当然ガイドはやりたがらなかったが、私も何度かやらされた。
トイレなんて言われても、安全で車を降りれる場所まで我慢してもらうしかなかった。
当時のLAはディズニーランドとユニバーサルスタジオに行く旅行者がメインで、新婚旅行と言う人も少なくなかったが、暴動の後は旅行者の数も激減し、新人ガイドの仕事は当然なくなって本当に苦しい時期を迎えることになった。
私が最初にLAに来た1984年はちょうどオリンピックが開かれた年で、私は活気に溢れた町が好きになったが、暴動のあとには山火事があったり洪水があったりして、ホームレスもギャングも増え、凶悪な犯罪が横行していった。
しばらくはLAでガイドをしていたが、危険を察知していた私は引越しを決意して、1993年12月にハワイに移ることになったのだ。
LAのノースリッジ地震が起きる1ヶ月前だった。
暴動から20年。
つくづくハワイは平和だと実感している。
LA暴動
http://www.latimes.com/news/local/la-me-riots-before-after-slider,0,2206833.htmlstory目指せ!ベスト5!
面白かったらクリックお願いします!(^o^)